【特攻隊に入れなかった男 8完】「魂の自由」~何年もかかって気付いたこと


church59

 

特攻隊に入れず

生きた父。

 

神父になれず、修道院を追い出されても

捨てなかった信仰。

 

 

そんな父を

アホ

と言っていた私。

 

 

しかし、

恥ずかしながら

今年になって気づきました。

 

 

父が重い病床にあっても守り抜いた「信仰」とは、

一般的に言うなら

 

主体的に生きる自分自身、

大切な自分自身の魂である

 

 

何年もかかって

私は気づいたのです。

 

 

父が残した言葉

 

「たとえ全ての財や心身の自由を失い、

 

知能を全て失っても、

 

決して失うことのないものがある。

 

それは、主を信じる心、

 

神を敬愛する心だ。

 

いいか、

 

これだけはどんな時でも失われることはない。

 

決して忘れるな。」

 

 

 

 

父は病床にあって、そのことを自分で守り抜いたのです。

 

キリスト教の信仰とか

神と言ったことは

私はよくわかりませんし

それを語れる立場では到底ないのですが、

 

 

父が残した言葉

 

それは

 

キリストの教えに限らず、

 

「自分自身の価値」

どんな時も消え去ることがないということの

信念

 

特攻隊に入れずに生きた男

神父になれずに結婚した男の

魂の叫びでした。

 

 

父の姿を通じ、

私はいかなる病魔もいかなる障害も、

人の魂の自由を奪うことはできないと確信しました。

 

 

末期

あのようなひどい状態にあっても

たましいの底にある

ぜったいになくならない「感謝」を

声もでない口から

絞り出した父。

 

 

 

多くの人は、くらしのこと

健康のこと

多くの問題に縛られ、

不自由に生きざるを得ません。

 

 

しかし、その人そのもの、

つまりですね、

「魂」

これは

自由である

って思うんですよね。

 

どんなにえらい人も、

どんな国家や軍・警察の権力も

どんなに重い障害や病気も、

人の「魂の自由」を奪うことはできない

 

ということを深く感じます。

 

 

 

 

 

恥じまみれ

 

糞まみれ

 

汚名まみれで生きていること

 

 

そのことを誹謗する人も多ければ

中傷する人も多いことを

私は痛いほど知っています。

 

 

しかし

 

しかしですね。

 

 

 

私がどんな姿であっても、今ここにいること、

あなたがどんな姿であっても、いまここに いること、

 

 

それこそが

それっこっそが、

 

ものすごい価値だ。

 

 

そう思うのです。

 

 

 

この真実を

 

 

 

特攻隊に行けなかった男が

その代わりにこの世に残したいのち

 

わたしのこのいのち

 

このいのちで、

 

私は証していきます。


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